【読んだ本】きたないものは流してしまう、それで問題は解決されるか。西きょうじ著「そもそも つながりに気づくと未来が見える」」

そもそも つながりに気づくと未来が見える

教養力、というとなにか身につけておかねばならない気がします。「デキる大人は教養!」なんてよく言われる昨今ですから、ニーズも高まっているわけです。

しかし、「教養」という言葉はあまりにも漠然としすぎていてつかみどころがなかったりします。たとえば、教養のある大人というものを最近見かけた方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか。

「学芸員はガン」と政治家が発言する昨今です。教養のある大人なんてのはもう絶滅したのではないのかと思わず考えてしまいます。

教養ある人で私が思い浮かぶのは湯川秀樹でした。彼の祖父は漢学を教えるほどの人だったのですが、湯川秀樹は物理学だけでなく漢学もちゃんと勉強しており、なにかの対談集で中国文学の研究者と非常に深い会話を残しているのを読んで驚いたことがあります。彼の理論に中国の物理観が影響しているとする研究もあるほどです。

この前ノーベル生理学賞を受賞した大隈良典さんも、「私は「役に立つ」という言葉が社会をダメにしていると思います」ということを言ってらっしゃいます。基礎科学の分野では、役に立つかどうかわからないものを積み上げることでようやく大発見に繋がることも珍しくないのに、いまの日本はこのような余裕が一切ないということに悲嘆してしまいます。

さて、そんなわけですぐ役に立つとは思えないような本をたくさん読んでらっしゃるのが今回紹介する西きょうじさんです(失礼)。

 

我々は2000年前からどれくらい進化しているのか?


この本は図書館の分類で言えばエッセイにあたります。豊富な読書経験から得たさまざまな知識を教養と捉え、それをカリスマ講師の話術をもって語ることでおもしろい本に仕上がっています。

この本で取り上げられているのは主には自然科学の本です。人間というのは自然から隔絶されたもののように思えているが、実際には長い進化の歴史で捉えるとまだまだ現代社会に適応できるような体に進化しきれていないのではないか、というようなお話から始まります。

人間がこのように文明を発展させられたのは、群れで生活するためです。しかし、文明は抽象化を経てどんどんと進化していますが、人間の姿かたちは2000年前とほぼ同じです。なので、高度な文明が出来上がった現在でも、人間は群れの生活から逃れられません。

その最たるものが子育てです。人間はほかの動物と違い、ものすごい長い期間の養育を必要とします。馬なんか生まれたその日には立ちますが、人間の赤ちゃんは1年は泣くことしかできませんし、たとえ立つことができても狩りをするレベルのたくましさを得るのに10年はかかります。15歳くらいでようやく成長のピークを迎えるのです。

このような長い養育期間が必要であれば、母のみで面倒を見切れるはずがありません。親族一同、どころか村全体で子育てをしていく必要があるわけです。現代以前の人間社会は非効率的であるように思えますが、その非効率の一端は人間が身体的な進化をしていないから引き起こされているとも言えます。

逆に言えば、人間は高度に効率的な現代社会に適応した身体になっていません。こう捉えれば保育所問題とか育休問題というのは絶対に見過ごせない問題です。子どもたちが公園で騒いでうるさいというのも長い養育期間を考えれば当然です。むしろ効率化したいのであれば積極的に社会全体で取り組むべき問題なのですが、そのような大局的な視点というのはだいたい忘れ去られています。

このことに気づくにはどうしたらよいのか、答えはこの本のタイトルにあります。「そもそも」人間とはどのような生き物か、問い直すのです。著者が「そもそも」というタイトルに込めた意味は、真理を改めて問い直そうということなのです。

きたないものは目の前からすぐに流す、だけでよいのか?


このブログを読みながらご飯食べてる人はいないと思うのですが、この本で扱われている内容で割と過激なのが排泄物についてです。

著者は五味太郎さんがとても好きなようですが、五味太郎さんの「みんなうんち」の鑑賞だけでまるまる一章分使っています。文章量も大したことがない絵本ですが、著者なりの見解をこれでもかと盛り込んで鑑賞文を作っています。

ウケ狙いの部分もあるのでそこはハハハと笑っていればよいのですが、著者はこの絵本の一文に心が引っかかったことを題材にその後の話を続けます。その一文は以下です。

みずべで うんち
みずのなかで うんち
かみで ふいて、みずを
ながして……

(五味太郎「みんなうんち」)

この絵本唯一の三点リーダ(…のこと)がここで使われています。著者は、うんちが水で流れてしまったからといっておしまいではない、ということをこの「……」から読み取っています。

そんなこと深く考えなくてもいいでしょって私も読みながら思ってたのですが、著者の考えはもっと深い方向へと飛びます。

この部分を抽象化すると、自分にとって不快なものを、スイッチ一つで見えないところに押しやってしまえば、自分の問題は解決した、ということになります。しかし、たとえば、ゴミを地方に押しやって東京のゴミ問題は解決、というわけにはいきません。また、宇宙にゴミを飛ばしてしまえばいい、などということが論じられたこともありますが、似た発想です。自分の視野から放り出せば問題は解決したことになる、という思い込みは根強いようです。(P.72)

佐藤愛子の「九十歳、何がめでたい」では、正論を振りかざす世の中は生きづらいものだわと嘆いていますが、まさに佐藤さんの嫌いな正論がこれなのかなと思います。

われわれは多くのものを犠牲にして清潔で快適な暮らしをしています。しかし、その犠牲をうやむやにしたまま忘れていては、いつか手痛いしっぺ返しをされてしまうのではないか、という気もします。その手痛いしっぺ返しというのが少子化であったりアレルギー疾患であったりするのですが、そのように具体的な問題として表出するころには、うやむやの代償としてそれに関するわれわれの知識は失われていたりするのです。

 

ノイズになりたい


著者は「ノイズになりたい」と言っています。直感的には、耳障りな音がないほうがいろいろなものに気づくような気がしますが、脳科学や電子工学で知られている現象に「確率共鳴」というものがあるそうです。簡単に言えば、信号を不規則に乱すノイズがあったほうが信号を検出する精度が上がるという現象です。

人間のDNAがすべて解析されてだいぶ経ちますが、解析された当初は98%が意味をなしていない配列だと考えられました。これは人間が進化の過程で使った過去の遺物で、いまを生きるわれわれには関係ない、というよりは機能していないものでした。なので、それらは「ジャンクDNA」などと呼ばれていたのです。

しかし、実際のところそのジャンクDNAは、もっとダイナミックに関係しながら、繊細なネットワークを形成していることが最近わかってきたそうです。一見いらないもののように思えても、もっと大きな視点で全体をみるとちゃんと必要なものだったりするという意味で著者は紹介しています。

これと似たような話だなと思ったのは、森田真生さんの「数学する身体」に登場する人工知能の話です。いまは人工知能が自分で進化をしていくという研究があるのですが、ある研究者が「異なる音程の二つのブザー音を聞き分ける」というチップを人工知能に進化させて作らせてみたところ、人間が最善だと考える論理ブロック数よりも少ない論理ブロックでチップを作ったそうです。

この研究の驚きはそれだけではありませんでした。一見するとなにも関係していないような論理ブロックがチップの中に出来ていたそうですが、その論理ブロックを取り除くと機能しなくなってしまったのです。

その関係ない論理ブロックはなにをしていたか、調べてみたところ、ノイズを利用して検出精度を高めるために必要だったのだそうです。まさに著者の西さんが言っている「ノイズ」を、人工知能が使っていたのですね。

人工知能は人間の常識に縛られていません。DNAも人間の都合で進化してきたわけではなく、生き残るために進化してきたのです。実はわれわれの常識外にあるノイズこそがダイナミズムの正体で、社会問題と呼ばれるものもそれらを消し去ってきたからこそ生じているのかもしれません。

「そもそも」って場面によっては非効率的な言葉なのですが、しかしその非効率こそ本質なわけで、たまには正論にも付き合ったほうがよさそうですね。

 

 

 

 

 

投稿者: 森野

図書館で司書をしています

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