【本日はおやすみ】空気を閉じ込める芸術

飲み会が連続してます。明日もおやすみです。こういう時は日記でも書きます。

先日、某ブックフェアへ行った際に、選書も忘れて「漫画家たちの戦争」という本を立ち読みしてました。

第1巻だとおもうんですが、いきなりドラえもんで始まり、次に手塚治虫がありました。

のび太のパパは戦時中に疎開して畑仕事をさせられてたようです。パパが戦時中にって時点でもう現代に生きるわれわれにとっては衝撃なんですが、オチはなんだかモヤモヤしました。

手塚治虫のほうは、ガキ大将がそのまま高校の番長になったみたいなおそろしい同級生との交流の話でした。しかし意外にも手塚治虫はその同級生と仲良くなって、マラソン大会の練習をいっしょにします。運動音痴の手塚治虫でしたが、その彼のおかげで良い成績をおさめることができて感動的です。

しかしその後1ページほどで、その番長は戦争に行って神風特攻をして死んだと書かれて終わります。なんともあっけない描写に拍子抜けして、それが逆に衝撃的でした。

戦争当時の状況は理解したくても、私にとっては遠い過去というより別世界の話に思えます。世界観があまりにも現代と違いすぎて、おそらく正確に理解することは一生ないでしょう。

事実として知ることはいくらでもできます。しかし戦争体験のあるマンガ家が書いているような話は、ところどころニュアンスが理解できない部分がある。これはたとえば外国文学で寄宿舎の雰囲気を細部まで感じることができないということと同じ感覚です。たぶんクィディッチの寮対抗戦は我々が思っている以上に(運動会の赤組白組以上に)寮生にとって重要だと思うのですが、その感覚はイギリス人にならない限りわからないのではないかと思います。

こういう、当時のにおいのような文章を書ける作家さんはやはりいて、それが評価されているのが芥川賞なのかなとおもいます。コンビニ人間は本当に現代のにおいがそのまま書かれていましたし、しんせかいも(私は好きではないのですが)北海道が舞台なのにあの当時の日本全体のにおいを感じられました。

そう考えると、絵画は歴史を視覚的に伝えますが、文芸は五感すべてに訴えることができる芸術だと思います。知識の伝達だけでは失われる情報がそこにあります。そういう情報が私たちに入ってくるとき、私たちの思考はひとつ階段を登れるのではないか。そんな気がします。

文学部不要論とかありますが、それはとんでもない思い上がりなのではないかとおもいつつ、図書館の入館者数がだんだん減少していることに歯止めをきかせられない日々です。

投稿者: 森野

図書館で司書をしています

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