【感想】「思考の整理学」から30年。外山滋比古「乱読のセレンディピティ」

アイデアは、思いかけないところから出てくる

東大で一番売れてる本みたいな帯がついていて、つい「思考の整理学」を買ってしまった、という経験がある方、いらっしゃるんじゃないでしょうか。

なにを隠そう私がそうでした笑。当時悩める大学院生だった私は、「30年も前に出た本なのにまだ売れている」「東大生が読んでいる」というような謳い文句になにか救いを見出して買ったような気がします。

「思考の整理学」を引っ張り出してみてみると、至る所に線が引いてあって、いやなんだか恥ずかしいなと懐かしくなったものです。

さて、そんな知の巨人、まだまだ元気でやってらっしゃるから本当にすごい。御生まれは1923年、大正12年なのに、調べてみたら2014年に10冊も本を書いているというから驚きです。さすがに最近新著はお見かけしていませんが、本屋へ行けばいたるところに外山滋比古の名前を見ることができます。

今回はそんな2014年に刊行された本の中から、本ブログのテーマでもある読書論のことを扱った本をレビューしようということで、表題の本について書いていきたいと思います。

ところで私は愛知県に住んでいますが、外山滋比古さんも愛知県生まれということで妙な親近感を持っています。ただし、私は「思考の整理学」が出た当時、まだこの世に生まれておりませんでしたので、ほぼ歴史上の人物のような感覚もあります。

学問をやる上でとても大切。セレンディピティとはなにか?


まずは「セレンディピティ」という言葉について、一応書いておきます。

セレンディピティとは「思いがけないことを発見する能力のこと」とされています。イギリスの作家ホレス·ウォルポールの言葉だそうです。

1754年、文人、作家のホレス·ウォルポールは友人、マンにあてた手紙の中で、偶然思いがけない発見のことを、セレンディピティと命名した。セレンディップの三王子にちなむものである……と書いた。「セレンディップの三人の王子」というおとぎ話が、そのころイギリスで流行していた。三王子はおもしろい才能(?)をもっていた。たえずものを見失う。それをさがすのだが、さがすものは出てこなくて、思いかけぬものが飛び出してくるのである。それが一度や二度ではなく、何度も何度もおこった、という話である。(P.83

この言葉、海外でいまも使われているのかはわかりませんが、特に日本の理系の学者さんはこの言葉を大切にしている、というようなことを人づてに聞いたことがあります。

たとえば、サラリーマンでノーベル化学賞をとったとして有名な田中耕一さんの受賞理由となった発見はまさにセレンディピティとのことです。彼は実験で使う媒体を間違えてしまったのですが、とりあえずそのまま実験を継続してみたところ、思いがけない発見に至ったそうです。ほかにも「ポストイット」の発明や電子レンジの開発など、思いがけない発見が大成功に至るという例は枚挙にいとまがありません。

外山さんはこのような理系で大切にされるセレンディピティは文科系でも起こすことを意識せよ、と説いています。その手法として乱読が勧められているのです。

外山滋比古さんの主要な業績のひとつに「修辞的残像」というのがあります。英語では、本来単数形になるところが複数形になるという文がしばしば登場します。このような破格を文法的に説明することができなかったのですが、この「修辞的残像」で説明がつけられるのではないか、という「発見」です。

この「修辞的残像」の発見に至ったのは寺田寅彦のエッセイを読んだからだ、というように回想してらっしゃいます。寺田寅彦について書くと長くなってしまうので避けますが、寺田寅彦の「科学者とあたま」というエッセイは豊富なアナロジーで科学者に大切なことを描き出しています。このアナロジーとがきっかけとなって、「修辞的残像」の最初のアイデアが生まれたそうです。

まったく関係ない本の教えから業績になるような発見をする、という話で、本文中ではほかに湯川秀樹にも言及しています。湯川秀樹は幼少の頃に祖父に教えられて漢籍の素読をしていたそうです。西洋の学者にはなかった中国思想の教えが、中間子理論を生み出したのではないか、と外山さんはおっしゃっています。

少し余談が過ぎましたが、「乱読のセレンディピティ」というのはつまり、「とにかく読み散らかすことで、思いもよらない知識を結びつける」ということになります。

知的メタボにならない。乱読の要とはなにか


このことは、勉強熱心な方ならそのとおりだと思われるのではないかな、と思います。外山滋比古さんが学生の時代はそんなことはなく、「乱読」というと悪いイメージがあった、というふうに回想してらっしゃいます。

それもそのはず、外山さんの考える「乱読」は、いまでも日本人に少なからずある「読書信仰」と呼ばれるものから程遠い本の読み方だからです。

本文中で一見整合性が取れていないなと思える部分があるのですが、それが「知的メタボリックシンドローム」という言葉です。本文中の言葉をそのまま出せば、いわゆる「専門バカ」といわれるような人たちのことを指すとのことです。知識で頭がいっぱいいなってしまった人は、ものを考える力を失ってしまう、ということなのですが、確かに社会に出てみるとしばしばそういう方も見受けられる気がします。

知的メタボ(と勝手に略してしまいます)が出来上がる背景には日本の教育にも原因の一端がある、というようなことも書かれています。明治維新は外国の知識を取り入れることで成功しました。そのため教育はとにかく文字を読むことに力が入れられていて、肝心の「それを活かす方法」は教えてくれません。GHQがそれを改めようとしたものの、「活かす方法」を教える日本人の先生がいなかったから、教えるのを早々に諦めてしまった、とも書かれています。

まぁGHQ云々は話半分くらいで受け取ったのですが、私自身も知識を活かす方法というのは学校教育で習った覚えはないと考えています。先の記事でまっとうな読書教育がなされていないというようなことを書きましたが、外山さんもそのことを指摘しているようです。

日本の国語教育では「本を読むこと」をありがたがり、本それ自体がなにか神聖なものなので、粛々と誠実に読書に取り組まねばならない、ということが大学に入るまで言われ続けます。このため、知識を発散せずに溜め込むばかりなので、「知的メタボ」という言葉がしっくりくるような人材ができあがる、というわけです。

それでは、乱読は知的メタボになるものではないのでしょうか。答えは否です。というのも、乱読はある分野の本を片っ端から読むという意味ではなく、まったく異なる分野を読み漁ることを指すからです。

たとえば、興味があるからといってビジネス書の啓発本ばかり読んでいては知的メタボになります。啓発書を読んでもいいのですが、次の日には天文学の本を読む。次の日は枕草子を読む……といったようにするのが乱読の要のようです。

さらに、知的メタボと言いっぱなしではいけないので、外山さんは知的メタボにならない方法というのも考察してらっしゃいます。曰く、「忘れる」ことが肝心だそうです。寝ている間のレム睡眠で記憶が整理されて忘れていいものから忘れていく、というのはどこかで聞いたことがあると思いますが、まずはこの睡眠による忘却は侮ってはいけないとのことです。

ただし、単純に忘れるといっていますが、記憶は忘却によって新陳代謝をするとのことです。忘却を経て再生された記憶は、当初の記憶から変化しているから「新陳代謝した」というわけです。しかも、これはたいていの人が経験があると思いますが、記憶は美化されるものです。「忘却は記憶を改善(?)させる」とまでおっしゃっています。

記憶は原型保持を建前とするが、そこから新しいものの生まれる可能性は小さい。忘却が加わって、記憶は止揚されて変形する。ときに消滅するかもしれないが、つよい記憶は忘却をくぐり抜けて再生される。ただもとのままが保持されるのではなく、忘却力による創造的変化をともなう。(P.180)

考えてみると、まったく別の分野の本を読む時、直前に読んでいた本の内容など忘れるに等しい状態になりますよね。私は仕事柄、ニュートリノの本を読んだり経済学の本を読んだり文学史の本を読んだり、と本をちゃんぽん(?)することがありますが、さすがに極小の物質の単位と太宰治はまったく絡まないので、その間に記憶が新陳代謝してくれて妙な考えに至る、というようなこともあるような気がします。

外山滋比古エッセイの真髄がここにある!


このように読み込むほどにいろいろと閃きが出てくる本書なのですが、この本の肝心なところは「エッセイである」ということです。

確かに外山さんは教育論でも数多くの文章を書いていらっしゃいますが、この本に書かれていることはべつに緻密な客観的事実に基づいているわけではありません。「知的メタボ」のところなど、「メタボリックシンドローム」という言葉を知ったのは本だったが、なんの本だったか忘れた、なんて正直に書いてあります。

ほとんど主観なわけですが、しかし「知の巨人」と言われる所以はここにあると思います。彼が主観でとらえているそのことごとくがとても鋭く、真実の輪郭を描き出していると思えてしまう。さらにそれが洗練された文章で書かれているので、とても大正生まれの人とは思えないくらい読みやすい。これが外山滋比古エッセイの真髄なのでしょう。

本書の中で、「本は身銭を切って買え」ということが書かれています。悪書に当たっても、その痛手が次の良書を選ぶ選書眼に繋がるからです。しかし、この本は文句なしに「買って正解!」といえる本になるでしょう。

 

投稿者: 森野

図書館で司書をしています

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