本は読まないほうがよい? 先人たちの言葉から考える読書論

読書はしてはいけない

このブログでは「読書」とはなにか、ということを考えるようにしています。

私は司書なので、常日頃から図書館はなぜ必要なのか、ということを考えています。いまの図書館はどちらかというと「娯楽施設」の面を強くしているのですが、そうすると図書館とはミステリ小説を読む場所くらいに考える人が多くなっているのではないか、と思います。

それももちろん図書館の使命の一つです。しかし、どちらかというと、娯楽施設にならざるを得なかったのではないか、という可能性が強いと思うのです。その原因はなにか、考えて見ると、そもそも読書という行為自体、昔といまではまったく違うものなのではないかな、などとぼんやり思えてきます。

出版点数が年間8万点というのは、人類がかつて体験したことがない世界だと思います。こうなってくると全部に目を通すわけにはいかないわけです。そんな我々にとってもしかしたら光明になる(?)のが、「本は読まないほうがよい」といっている人たちの意見です。

今回は、「読まない」といっている人の意見からいろいろと検討してみたいと思います。

 

読書は考える力を失う?


まずはオスカー・ワイルドです。

彼は人気者ではありましたが、破天荒な人生を送ったことで有名です。そんな破天荒ぶりを表しているのか、こんな言葉も残しています。

私は批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ。

まぁ、ふつうに考えてむちゃくちゃですよね笑

ショーペンハウアーも「読書について」で同様のことを言っているように思えます。彼の有名な言葉に以下のようなものがあります。

読書は他人にものを考えてもらうことである。

読書に対する痛烈な批判のようですね。これに続いて、こんなことも言っています。

読書しているとき、私たちの頭は他人の思想が駆け巡る運動場にすぎない。読書をやめて、他人の思想が私たちの頭から離れていったら、いったい何が残るだろう。だからほとんど一日中、おそろしくたくさん本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休めにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われていく。いつも馬に乗っていると、しまいに自分の足で歩けなくなってしまうのと同じだ。

ショーペンハウアーはひどく思考が鈍くなることを恐れているわけです。

しかし、この両人ともに、完全に「読まないほうがよい」といっているわけではないと思われます(ワイルドの上記の言葉は批評家に向けて言っているので、一般読者には当てはまりません)。

実は二人とも、「古典は読め、悪書は読むな」ということを言っているのです。ワイルドは「読むべきか読まざるべきか」という雑誌記事で「読むべき良書」を挙げています。ショーペンハウアーも、「読書について」の意見をまとめると「古典を読め」ということになります。

二人とも問題にしているのは「悪書」なのです。つまり、読んでしまってはいけない悪書が世の中にはびこっているので、そういう本には絶対に手を出してはいけない、と言っています。手を出してしまうと、上記のショーペンハウアーの言葉のとおりになるわけです。またオスカー・ワイルドは、読むべからざるものを教えることは大学の使命だとまで言っています。

まずは本に「良書」と「悪書」があることは確認できました。ならば「悪書」は避けていけばいいわけですね。しかし、ショーペンハウアーは19世紀の前半、オスカー・ワイルドは後半を生きた人です。その当時からして「悪書」がはびこっていたのだ、とすると、なんとも言えない事実が浮かび上がってきます。

 

 

出版点数は年間8万点。ところで、悪書ってどれだ!?


彼らの理論を頼りに読書をしようと思うと、悪書はとにかく避けねばなりません。

しかし、現代に生きるわれわれが悪書を避けようと思ってもそんなことはできない、と言えます。これは私の司書としての経験から言っています。

私は毎週発売された本をすべて通覧し、その中から買うべき本を選ぶ、という業務を行なっています。細心の注意を払って良書を探し抜き、決して多いとは言えない予算を使いこなそうと必死になっています。しかし、その時点ではよいと思っていた本でも、たった1年で陳腐な情報になってしまう、という状況がたびたび起こります。

外山滋比古さんの本に、こんなことが書いてありました。

イギリスの書評誌「タイムズ文芸批評」はもっとも権威ある書評で知られる…(中略)…五十年くらい前のことになるが、思い切ったことをした。二十五年前の誌面をそっくり再刊したのである…(中略)…好評、賞賛を受けていた本が、再刊で見るとさほどでもない、どころか、世間から忘れられてしまっているものが少なくない。”今年最大の収穫”などと評せられた本が、いまほとんど名も知られなくなっているのである。そうかと思うと、出たときの欠点の多いとされた本が、いまや古典的になりかけているという例もあって、同時代批評というものの難しさを如実に示した。(外山滋比古「乱読のセレンディピティ」扶桑社)

つまり、その本が良書なのかどうか、時間を同じくする我々には判断がつかないのです。

本というのは不思議なもので、「時の試練」に耐える本が必ず出てきます。これは出版社や著者の意向などまったく関係ないのです。しかも、「ガリバー旅行記」が時を経て諷刺から児童文学になった、という事例からも明らかなように、たとえ古典になるとしても、同時代を生きたわれわれが意図した通りの古典になるという保証もありません。

ショーペンハウアーやワイルドの時代ですら悪書があふれかえっていたのに、そこから100年以上経った現代ではもっと玉石混淆なわけです。しかも悪いことに、われわれ日本人は日本語文献が8万点も出るのでそれですべてだと思ってしまいますが、アメリカでは17万点、イギリスでも13万点出ているのです。世界の知識量はものすごい加速度で増加していて、まさに情報爆発が起こっているのですね。

 

まとめ:どんな読書が求められているのか


世間には「速読がいい」とか「精読がいい」といった読書論もあふれかえっています。

先述の外山滋比古さんは「1冊10分で読むなんてバカげている」といっています。そんなに速く読めるようなものは読むに値する本ではない、というわけです。

しかしどれが読むべき本か検討もつかないわれわれは、とにかく何か読まねばなりません。でも、たまたま悪書にばかり当たる人は、読書なんて取るにも足らないと投げ出してしまうかもしれません。

こうやってどんどんと考えていくと、袋小路に陥ってしまうような気もします。

でも、そもそも考えて見ると、「なぜ読書をするか」という問いは人それぞれです。

この問いに答えることで、揺らぐことのない読書をすることができるのではないかと思います。いくらショーペンハウアーが戒めようと、「娯楽のために読書をする」という人を止めることはできません。

この多様性の時代で、「なぜ読書をするか」といったような、自分を自立させる問いを立てることは非常に意義があると思います。日々の生活で流されないためにも、まずは落ち着いて「なぜ読書をするか」というのを考えてみてから読書をするというのは効果がありそうです。

その問いの結果、「自分には読書が必要ないな」という結論にいたる方もいると思います。それはそれで間違っていないと思いますから、自信を持ってください。

でも大多数の方は自分にとっての読書というものを持っているはずです。まずはそれに従って、自分がよいと思うのものをたくさん読んでみてください。

投稿者: 森野

図書館で司書をしています

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